そのAI建築、函館で建てられますか?
- 建築設計 キタザキ アーキテクツ

- 2 日前
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更新日:1 日前

かつて設計とは、手で線を引くことだった(僕は学生時代にしか経験してないけど)
やがてCADが登場し、マウスで線を引くようになった。
そのとき現場や事務所では、
「コンピューターなら早いでしょう」
「設計料は安くなるのでは?」
そんな言葉が当たり前のように飛び交っていた。

しかし実際には違った。
道具が鉛筆からコンピューターに変わっただけで、設計そのものが軽くなったわけではない。
むしろCADを使うことで、CGを覚え、パースを作り、動画を編集し、BIMへと移行すれば、3Dモデル、VR、構造計算ソフトの活用、BIM確認申請の始まりなど、設計者の仕事は拡張し続けていった。
効率化されたはずの時間は、すべて「新しい表現」と「新しい業務」に置き換わっただけだった。

そして今、生成AIが現れた。
指示を与えるだけで、自分では思いつかなかった建築のパターンが、いくつも立ち上がる。
この行為に対して、どこか「手抜きではないか」という感覚が残る
それはおそらく、“自分の手を動かしていない”ことへの違和感
これまでバリエーションを作るには、自らCGを起こし、時間をかけて検討してきた。
そのプロセスが一気に短縮されることで、「努力していない」という錯覚が生まれる。

だが、同じことをアシスタントに指示した場合、どうだろう?
こちらが意図を伝え、別の人間がCGを制作する
その結果をもとに、設計を進める。
このとき、それを「手抜き」とは感じない。
つまり問題は、作業そのものではなく、“誰が手を動かしたか”という感覚に過ぎない。

本質的に、設計とは何か?
それは、無数の可能性の中から、何を選び、何を捨てるかを決める行為
線を引くことそのものではなく、判断し、統合し、意味を与えることにある。
生成AIは、設計を代替しているわけではない。
むしろ、これまで時間的制約によって検討できなかった「可能性の幅」を、一気に可視化している。
触れられなかった選択肢に触れられるようになっただけだ。

北海道・函館という土地で設計していると、その「選ぶ」という行為の重みを、日常的に突きつけられる。
冬の厳しさ、日射の少なさ、雪、風、、、
断熱性能や暖房計画を曖昧にしたまま、空間の美しさだけを追い求めることはできない。
例えば自邸であるサクラハウスでも、30坪という限られたボリュームの中で、ピアノアトリエ、ラウンジピット、2.7mの天井高、そして雑木林と桜に開く空間を成立させるために、無数の選択と取捨選択を繰り返してきた。
そこには「なんとなく良い形」は存在しない。
すべてに理由があり、すべてが選び取られた結果だ。
生成AIは、設計を代替しているわけではない。
むしろ、これまで時間的制約によって検討できなかった「可能性の幅」を、一気に可視化している。
触れられなかった選択肢に触れられるようになっただけだ。
設計者に求められる役割が、「作ること」から「選び抜くこと」へと、より純化されてきているだけだ。

効率化によって空いた時間は、結局また別の仕事で埋まる。
それはこれまでCADでも、BIMでも起きてきたことだ。
生成AIも同じように、設計者の仕事を奪うのではなく、設計の“解像度”を上げる方向に働く。
自分の手で全てを生み出すことに価値を置く時代から、無数の可能性を扱い、その中から最適解を導くことに価値が移っている。
生成AIを使うことは、手抜きではない。
それは、設計の射程を広げるための、新しい道具である。
そしてその道具をどう使い、何を選び取るか。
その責任は、これまで以上に設計者に委ねられている。





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